2015年08月03日
「こころとからだの平和のバトン」 2日目です。
「こころとからだの平和のバトン」 2日目です。
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俺で4代目の酪農家でした。
仕事を決めた時は多摩ニュータウン開発で
強制収用で畑を売りなさいと言われていた時でした。
未来の見えない選択でした。
俺の父はシベリアから帰還して3代目の百姓です。
自分の意志を貫く性格でした。
多摩ニュータウン開発に向かって、、、
都市にも農業は必要だと体を張って社会に発信し続けて
いました。
毎日が、人を受け入れる毎日でした。
我が家には自分たちの生活はありませんでした。
人が来る、そして、父、母、俺は皆が寝るころに
乳を搾る生活でした。
市や都や国に対して小さな堀之内寺沢を守るために
1年、2年、3年、、、10年、、
20年と訴える日々、、でした。
多くの人と共に暮らす百姓はそうはいないんじゃないかと
思うほどでした。
こんなことありました。都知事が美濃部都知事時代前後です。
当時の都議会議員の後藤マンさんという女性都議の方が
我が家に来る日々がありました。
夕方、三宅島から帰ってくるなりに、、
「くさや」持ってきたよ。
その後藤マンさんが都議会本会議で美濃部都知事に
「堀之内の酪農は残します」と言わせました。
それでも、国の日本住宅公団との戦いは続く毎日でしたが
我が家には「農ある暮らし」に共感してくる市民の方が
やってきてくれました。
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写真はフォトジャーナリストの森住 卓さん撮影です。
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俺で4代目の酪農家でした。
仕事を決めた時は多摩ニュータウン開発で
強制収用で畑を売りなさいと言われていた時でした。
未来の見えない選択でした。
俺の父はシベリアから帰還して3代目の百姓です。
自分の意志を貫く性格でした。
多摩ニュータウン開発に向かって、、、
都市にも農業は必要だと体を張って社会に発信し続けて
いました。
毎日が、人を受け入れる毎日でした。
我が家には自分たちの生活はありませんでした。
人が来る、そして、父、母、俺は皆が寝るころに
乳を搾る生活でした。
市や都や国に対して小さな堀之内寺沢を守るために
1年、2年、3年、、、10年、、
20年と訴える日々、、でした。
多くの人と共に暮らす百姓はそうはいないんじゃないかと
思うほどでした。
こんなことありました。都知事が美濃部都知事時代前後です。
当時の都議会議員の後藤マンさんという女性都議の方が
我が家に来る日々がありました。
夕方、三宅島から帰ってくるなりに、、
「くさや」持ってきたよ。
その後藤マンさんが都議会本会議で美濃部都知事に
「堀之内の酪農は残します」と言わせました。
それでも、国の日本住宅公団との戦いは続く毎日でしたが
我が家には「農ある暮らし」に共感してくる市民の方が
やってきてくれました。
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写真はフォトジャーナリストの森住 卓さん撮影です。